fこんにちは。
弱小文化財応援ブログ「おらがまち」まちこです。
神社やお寺は
- パワースポットだから行く
- 御朱印をもらいに行く
- ただなんとなく観光地だから行く
と思います。
でも古建築の見方をちょっと知っているだけで、ただの観光が修学旅行へ。
とっても充実した散策になること間違いなしです。
ちょっとした豆知識でもって、旅行やパワースポット巡りがもっともっと楽しくしませんか?
それでは、今回は初回なので建築の基礎編となるものを見て行きたいと思います!
古建築や史跡・遺跡の見方
神社やお寺の見方と題名をつけましたが、今回はもっと大きく広げてみたいと思います。
日本中どこに行っても、あなたのお家のすぐ近くにも、神社やお寺に限らず「古建築(こけんちく)」があると思います。
あちこちに築何年以上ってものありますよね。
見る時にまず何をみましょう。
「ああ、古い建物だなぁ」
「すごく立派な木材つかっているなぁ」
「いい雰囲気があるなぁ」
一通り外観を見て雰囲気を感じて、中に入れれば入ってみる、というのが一般的かと思います。
でも古建築には実は見どころがいっぱい。
瓦の種類や木の太さ、木材の削り方に、釘を使わない木造建築の組み方、建具や金具の華やかさ、などなど。
知っていると知っていないでは、ものの見方がかなり違ってきます。
それではここで問題です。
柱で屋根を支えて、屋根で建物を保護する。
これが建物の基本です。
日本建築は木造建築が主流で、この木造建築の素材はもちろん「木」です。
なので柱も木。
では問題です!
この柱はどのようどこに建っているでしょう?
- 土に埋まって立っている?
- 地表に直接立っている?
- それとも別の方法で立っている?
聞かれると意外に答えられませんよね。
はい、答えは「3」です。
ではではどんな方法で立っているんでしょう?
あんまりじらすのは好きではないので答えを言ってしまいますが、木造建築は全て「石」の上に立っています。
これを頭に入れておくと、とっても面白い見方ができます。
歴史とか建物の規模とかわかってしまうんです!
では、この「石」について細かく見て行きたいと思います。
野っ原に石?
この写真の様に、野っ原にポツポツと石が置いてある風景、みたことありませんか?
いわゆる「史跡(しせき)」といわれるところにあります。
これも立派な文化財。
ただのオブジェではありません。
この「石」のことを「礎石(そせき)」といいます。
基礎となる柱を支える石、なので「礎石」です。
石の数だけそこに柱が立っていました。
なのでこの写真の礎石を見るとかなり規模の大きい建物が建っていたことがわかります。
なぜわかるのかって?
大きな建物ほどの柱の数が必要です。
でももしかしたら、めっちゃ小さい建物で柱の数だけ多くしてたのかもしれないじゃんと思われた方。
それいい質問です。
礎石と礎石、つまり柱と柱の間の長さは決まっていて、おおよそ2メートルになります。
この柱と柱の1つの間のことを「一間(いっけん)」といいます。
一間=7尺もしくは6.5尺(約2メートル)
なので三間なら、21尺(6メートル)になります。
京都にある三十三間堂は、この間が33間あるからこの名前がつきました。
1間の長さの決まりがが出来たのは平安時代で、これを「間面記法(けんめんきほう)」といいます。
これが室町~鎌倉時代になると、間(けん)が部屋の広さを表す基準となり、1間×1間を「一間(ひとま)」と呼ぶようになります。
現在の「坪」と同じサイズ。
これ以前(奈良時代)は「実寸法(じっすんほう)」という基準があり、1間が6~6.5尺(約1.8メートル)で作られていました。
というわけで、長さにはある程度の基準があるので、めっちゃ小さい建物は必然的に柱と柱の間の数が少なくなるので、写真の礎石を見る限り、礎石の数が多い大きな建物とほぼ確定できるわけです。
では、奈良時代以前なら、ありうるのかというとそういう話にもなりません。
奈良時代以前は「掘立柱(ほったてばしら)」なので、穴を掘って柱を埋め建物を作っていました。
そもそも礎石がありません。
(※一部例外的に寺院などは礎石があります。)
簡単にいうと
- 礎石があって、成人男性1人分が入るくらいなら、奈良時代~平安時代に建てられたもの。
- 礎石があって、成人男性1人以上が入るくらいなら平安時代以降に建てられたもの。
- 穴があるなら掘立柱の建物
すべてがすべてこれに当てはまるわけではないので、ゆるい感じでこれを覚えておけばOKです。
礎石だけが並んでいるところに行って、何も案内板などがない時は、これでみてみてください。
なんとなく時代区分が出来てしまいます。
ちなみに飛鳥時代には「間」に長さはなく、柱と柱の間を数える単位でしかありませんでした。
長さは尺でしかはかりませんでした。
なので、1間の長さがいくらだろうと1間はただの1間。
長さを測った尺は「高麗尺」といって、今の尺より5センチ長いおよそ35センチほどでした。
飛鳥時代の建築物はあまり現存していません。
代表的なものといえば、法隆寺の金堂ですね。
数えるほどしかないので、飛鳥時代の建築物は覚えてしまった方が早いくらいです。
細かくなってしまいましたが、礎石がある時点でその建物は仏教伝来以降の建物になります。
礎石の技術は、仏教のお寺を建てるためにやってきた伝来技術だからです。
よくわからなかったという方は、これだけでも覚えておくといいと思います。
「間違い」の由来
建築・土木関係にたずさわる人にはこんな歌がつたわっているそうです。
一分二分なら・・・
一寸違えば寸違い
一尺違えば尺違い
一間違って本当の間違い
寺院建築(文化財探訪クラブ)より引用
1間違うと本当の間違いになるって面白いですよね。
普段わたしたちが使う「間違い」という言葉はここからきているといわれています。
分(約3mm)・寸(約3cm)・尺(約30cm)は、はかり間違いで済ませられるけど、1間違うと柱の数が変わってきてしまい、建物を建てる時には大きな違いとなります。
なので、大工さんたちの中ではこうした歌が流行っていたんですね。
1間間違えれば「間違い」で、1間抜かしてしまえば「間抜け」なんだとか。
復元の限界が野っ原の礎石を生む
史跡にはよく礎石だけが展示されていることが多いといいました。
礎石だけ飾ってなんかおもしろいのか、と昔わたしも思いました。
たぶんほとんどの人は「ああ、建物が建っていたのね」ぐらいにしかみないと思います。
だって想像が出来ませんから。
実物に勝るものはありません。
そのため場所によっては上部の建物を復元して、建物自体を展示しているところもあります。
でも、これはお金があるから出来ることなんです。
文化財の保護や維持には、莫大なお金がかかります。
ましてや、復元するなんて、どれだけのお金がかかるのか想像にかたくありません。
しかも、それにあわせた木材を探すことは現在では困難に近いです。
復元の限界というやつです。
写真の様に下部だけ柱を再現しているところや、公園として整備するなどは、お金はかかるものの比較的安価に整備することが可能です。
また、近隣の住民との折り合い等々、文化財修復の諸事情もあるので、なかなか難しいんですよね。
お金だけでは解決できないこともあります。
ここで得た知識が少しでも、想像する力になってくれればと思います。
礎石について、なるほどと思ってもらえたのならばうれしいです。
礎石について
そもそも、礎石はなのために置かれたんでしょうか。
木造建築にはなくてはならいものなので、このあたりから推測することができます。
木でできた木造建築は、つねに「水」との戦いです。
木は濡れればそこから腐ってしまったり、建物の老化劣化をさせてしまう原因となります。
礎石は一段高い所に柱を置かせるシステムとなるので、地表にたまった雨水に直接触れさせない役目をします。
今の建物はコンクリートの基礎の上に立っていますが、この技術が出来上がるまで礎石は重要なものでした。
色々な形や種類がある
礎石には自然の石を使ったものや、写真のように柱があたる部分を丸くくりぬいたもの、柱をがっちり受け止めるために突起をもつものなど、形は色々でした。
特に床板がない時代には姿や形が重要視されていましたが、それ以降は床板で見えなくなり衰退して行きます。
五重塔や三重塔など、お寺にある塔を思い出してください。
塔の中心となる柱のことを「心柱(しんばしら)」といいますが、これの礎石は特に「心礎(しんそ)」といいます。
建物の礎石が衰退していく一方で、この心礎は仏舎利などを納めるところとして残り続けました。
特に中心なので周りより比較的大きく、塔の礎石などを見る機会があったら注目してみてください。
穴があいていたら、そこには仏舎利が納められていました。
塔は、お釈迦様の骨を入れておくものなので巨大なお墓としてとらえることが出来ます。
仏教伝来のころは、これを中心にお寺の堂が建てられていましたので、この塔の礎石を中心に広大な敷地があったという想像もできます。
また城郭の史跡に残されている礎石を見る機会があると思いますが、本来ならお城の地下に隠れているものなので、現在目にすることが出来るわたしたちはちょっと幸せものです。
お城がなくても残念に思わないでくださいね。
実はラッキーなことなんですよ!
基壇も知っておくと面白くなる
礎石は一段上に柱を置くためのシステムと上記しましたが、実はそれ以上にもっと効果的なシステムがありました。
それが「基壇(きだん)」というものです。
地面の上に石の台を作りその上に建物を建てる基礎です。
柱を乗せる礎石とは規模が違って、建物自体を地表より一段上に作らせるので建物と同等の広さが必要となります。
礎石よりとっても重労働です。
イメージは石垣の上に直接建物
檀上積一重基壇・檀上積二重基壇・石垣積基壇・乱石積基壇・亀甲積基壇などが挙げられますが、名前だけ見てもなんのこっちゃです。
イメージとしては石垣のもっと低く規模の小さい、全部が石でつくられたものと思ってもらえたらいいと思います。
基壇の特徴は、床板のないお寺によく利用されてること。
禅宗のお寺に多いのですが難しくなるので、神奈川県鎌倉にある寺院は高確率でこれですので、ちょっと思い出してみて下さい。
鎌倉は禅宗のお寺が多いことで知られています。
堂内に入る時に靴を脱いで入らず、直接石が敷いてあったりするんですが、思い出せましたか?
冬寒いなぁと思って見たりしていませんでしたか?
その足元の石の塊が基壇です。
また、もう一つの特徴としては奈良時代などの古い時代のお寺にも多いということです。
基壇自体を床にするというのは、禅宗の寺院か奈良時代以前の古い寺院がほとんどです。
私たちが今見るお寺などは、床板を使って縁などがあります。
縁のあるお寺になるのは平安時代以降で、基壇の名残として「亀腹(かめばら)基壇」というものが出来上がってきます。
床下や縁の下に空間が出来ることを防ぐもので、鳥居なんかの根本にもありますね。
これ日本独特の基壇なんです。
亀腹基壇をはっきりみることが出来るのは多宝塔です。
多宝塔も日本独特の仏塔なので、意識してみると面白いですよ。
いずれにしても、雨風を防ぎ建物を守るためのものです。
更に水除けとして、礎石を基壇の上に置く事もありました。
木造建築を建てる上ではどうしても必要になるものなので、礎石も基壇もなくなりはしません。
今度ちらっと、おうちのすぐ近くのお寺の縁の下をのぞいてみて下さいね。
意外な発見があるかもしれません。
蟇股も見てね
掘立柱はなくならなかった~まとめ~
仏教建築物が入ってくる以前にも、日本には大きな建物を建てる技術がありました。
しかも掘立柱で。
出雲大社の発掘調査でわかったことで、なんと建物の高さ48m!
3本の太い木を一つにまとめて使用し、直径2.85mの柱でささえていたといわれています。
もちろん掘立柱なので穴をほっています。
そしてその中に石を敷き詰め、礎石のように柱を受け止めていました。
「根固め(ねがため)」といって、小さな石を敷き詰めた状態のことをいいます。
とはいっても、柱の太さが2.85mもあったので、小さな石の大きさも拳大から50cmくらいの大物まで、全部で20tもあったそうです。
昔から出雲大社の建物は大きかったと文献ではわかっていたのですが、この発掘調査によって本当のことだったということがわかりました。
この柱は12世紀ころのものと考えられていますが、それ以前にも同等の建物が建っていた可能性がいわれています。
古代の人は、こんなすごい技術があったのに、なぜわざわざ仏教伝来の建築技術を取り入れて行ったんでしょうか。
また、どうして礎石・基壇の建物が伝らしても掘立柱の建物を造り続けたんでしょうか。
掘立柱で建てるものといえば「神社」。
神社は定期的に建て替えることが根底にありましたし、そのための木材も日本には豊富にありました。
掘立柱は、日本の環境にもっとも適した住居だったんです。
また、平安時代に入っても高貴な身分の邸宅などは掘立柱で建てていました。
内裏(だいり)などは掘立柱で建てることが基本とされていたので「掘立柱=聖なるもの」という意識が続いたためと思われます。
日本の不思議なところは、良いものはとことん取りいれますが、絶対にそのものにはならないということです。
仏教が伝来してきても、仏教の建築様式が入って来ても、仏教を取りいれても、「仏教の国」にはなりませんでした。
だから、神道も仏教も混在した不思議な国となってしまったわけです。
日本には、掘立柱も必要だったし、仏教建築も必要だったんですね。
参考文献:島根県大社町 出雲大社境内遺跡の発掘調査の成果
遺跡や史跡となってしまった寺社で、建物が建っていないものって結構あります。
礎石だけ残されていて、ふつうに見るとなんのこっちゃわかりません。
でも、こうした知識があるだけで、その建物を想像することが出来ます。
今度どこかに旅行・観光に行ったときは、そういえばまちこがそんなこといってたなぁと思い出してくれればありがたいです。
ちなもの歴史旅にはちょっとしたコツがある。
バッグに一工夫で楽ちん歴史旅の記事はこちらへ。
礎石だけでも立派な文化財。
史跡で石だけだと思わずにたちよってみてあげてくださいね。
以上、「おらがまち」まちこでした。
< 参考文献・サイト >