おらがまち

歴史大好きまちこ主催!弱小「文化財」応援ブログ!

神社に神様はいない。神棚も空っぽ、お守りも空っぽ、神様ってどこにもいないの?

こんにちは。

弱小文化財応援ブログ「おらがまち」まちこです。

 

ブログ柄「神社」をよく引用しますが、実は「神社」に神様はいません。

「〇〇命」「〇〇神」と連呼しまくってますが、神様は「神社」や「神棚」、分身といわれる「お札」に住んで(入って)いません。

 

ではわたしたちは、空っぽの神社にお参りをしているんでしょうか。

 

そこには巧妙なカラクリがあります。

思わず古代人って考えることがすごいな~と思ってしまいます。

 

それでは「神様はどこにいるのか?」早速みてみましょう!

神社は空っぽ?

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神社が空っぽというと、ちょっと語弊(ごへい)があります。

 

しかし、冒頭でお話したとおり神社に神様は住んでいません。

ではどこに神様はいるんでしょうか。

 

 

それはずばり「天」です。

 

 

なんだか宗教チックになってきたなぁと思われるかもしれませんが、これは古代から続く考えなので悪しからず素直に受け入れて下さいね。

 

しかも、神様は「天」にそれぞれ一柱*1しかいません。

 

ここで感の良い方は気づいたことがあると思います。

 

そうなんです。

神社って一人の神様を色んなところに祀っていますよね。

 

つまり、1人の神様に対して神社は複数存在するわけです。

神様は数や時間軸を超越してる

ってことは、神様は全国各地津々浦々に存在する自分を祀る神社に分身していなければならないことになります。

 

神様なら分身なんてお手の物かもしれませんが、神社の数ってすごい多いです。

お稲荷さんなら全国約50000社といわれています。

ただしこれは神社庁に登録されているものなので、個人的なお社や祠なんかを数えたらそりゃえらい数になります。

 

では、それだけの数だけ神様は分身しなければならなくまりますよね。

神様って身を引き裂かれつつわたしたちの信仰の対象になっている、

 

わけではありません。

 

神様は分身の術は使いません。

 

 

神様は人が請い願った時にそこに現れるんです。

 

 

どういうことかというと、人が「神様!」って思った瞬間に神様はそこにやってきます。

例えば複数の人が、色々な同系列の神社でお参りをして「神様!」って思うと、その瞬間に神様は「降臨」し、それぞれの人や神社のために「分霊」します。

 

数や時間軸には全く左右されません。

 

ちなみに分霊してもご利益が薄れるわけではありません。

その神様がそのままやってくるので「神力」とでもいいますか、その力は健在。

 

 

そして、根本的に神様が地上に降りてくるためには「依代(よりしろ)」というものが必要となります。

 

この依代がないと、神様は地上に降臨することが出来ません。

 

いわゆる「御神体」というものです。

 

まちこ的には、古代の人のこの依代への考え方がとっても面白いと思っています。

依代(よりしろ)というもの

「依代(よりしろ)」はどんなものでも構いません。

 

しかし、古代は神への神威的なものから山や巨石などが信仰の対象となっていて、それが御神体(依代)となり、神社は大概これらのすぐ近くに建てられていました。

 

なので、動かせないものを御神体にしている神社は結構古い神社が多いです。

 

※人間も依代になります。

「神がかる」なんていい、巫女が神が宿る依代として使われることがありますが、今回はこれは外しています。

なぜなら、今も昔もこれは御神体にならなかったから。

ここだけでも面白い。

 

この依代が生まれた経緯は、とっても簡単。

わざわざそこにお参りに行くのが大変だったからです。

 

だって、雨が降っても雪が降っても、忙しくても遠くても、神様のとこまでお参りするのって大変じゃないですか?

昔の人もそう思っちゃったんですね。

 

つまり神様を人間の都合で、神社に呼ぶようにしたわけです。

 

神様は依代さえあればどこにでもやってくることが出来るので、それを巧妙に利用したんですね。

 

そして神社の数は爆発的に増えましたし、御神体の姿も多種多様なものになっていきました。

最初は山や巨石だったものが、鏡や木、お札などへ変化。

人工的に作れるようになったことから、神様はどこへでも行けるようになりました。

 

神棚もこれと同じです。

遠くの神社へ毎日行くのは大変だけど、家の中に作れば毎日手を合わせる事が出来ますよね。

まちこ余談話~仏像にも神が宿る?~

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わたしたちは仏像を見ると、あたかもそこに仏様がいるような神々しい感覚になりますよね。

 

でも、この感覚って日本人だけなんです。

 

日本には、万物すべてに魂が宿るという神道の考えがあります。

なので、ありとあらゆるものに神様が存在するというのが常識。

 

お米一粒一粒にもトイレにも玄関にも、お水にも葉っぱにも花にも砂の一つにも神様がいるんだよ、っておばあちゃんに教わったりしませんでしたか?

 

 

しかし、仏教には基本そのような考えはありません。

だから仏像は、仏教の教えをわかりやすく形にした象徴のようなものでしかありません。

 

仏像は、仏教の世界の「〇〇観音」や「〇〇如来」はこんな姿をしていて、こんなすごい力を持っているんだよ*2と教えるために作られています。

 

つまり、仏像自体に仏様は本来いません。

 

 

でも!

日本に仏教がやって来て面白い現象が起きます。

 

仏像にも神様が宿っちゃったんです。

 

神道の考えと仏教の考えのいいとこどりをした結果、仏像も信仰するべき神が宿る像となったんですね。

 

だからわたしたちは、仏像をみても恐れ多いとか神々しいとか敬うべきものとしてとらえるわけです。

仏教の世界にも「依代(よりしろ)」という概念が入り込んだ結果の現象になります。

 

だから日本人から見る仏像のあり方と、海外の人が見る仏像では根本的に見方が違います。

日本人って、文化を取り入れる精神がちょっと秀逸というかおかしいというか面白いというか、独特のものがあります。

いいと思ったものはとことん取りいれますが、決して「そのもの」に染まることはありません。

 

仏教が伝来して、仏教寺院や仏像が乱立しても決して神道を捨てることはなく仏教の国にはならなかったですし、明治維新で西洋諸国の技術をとりいれてもキリストの国にもならなかった。

 

面白い国です。

 

と!レヴィ博士も言っています。

海外から見た日本の文化を論じたこの本は、これまた面白いのでご一読あれ。

月の裏側 (日本文化への視角)

月の裏側 (日本文化への視角)

  • 作者: クロード・レヴィ=ストロース,川田順造
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/07/09
  • メディア: 単行本
 

まとめ

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神社に神様はいませんが、神様は時間と数を超越して存在しています。

 

そこには「依代(よりしろ)」というものを人工的に開発した古代の人のカラクリがあります。

そしてその考えが、今の私たちの中にもあるのかと思うと面白くなりますよね。

 

お守りは肌身離さず身に着けていなければ意味がないというのはココです。

交通安全のお守りも買って買いっ放しじゃ意味ありません。

毎日持ち歩くカバンにつけたり、家の鍵と一緒するとか常に持ち歩かないといざというとき役に立たないですよ。

 

「神様!」って思った瞬間に「依代」がないと、神様は来れません。

 

 

以上「おらがまち」まちこでした。

*1:1人と同義:神様は「柱(はしら)」と数えます。

*2:腕や顔がたくさんあったり、武器をもったり、怒った顔してたり、仏像はとっても表情豊か